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満州で生まれた音々は、戦後、日本の闇市で乞食として生きていた。 音々の心の支えは、金魚娘々と謳われた母譲りの美しい肌と、見世物小屋の青年、健一の存在だった。
金魚がひらひら泳いでいる。鰭をまるで着物の裾のように水に靡かせている。裸電球の光を受けて、赤い鱗が黄金に輝く。
音々《ねね》は、飽きもせずに水槽の中で踊る金魚たちを見つめていた。金魚を見つめる音々の眼は虚ろで、その股下からは痛々しい鮮血が滴っている。
下半身がジンジンと痛む。その痛みを感じるたびに、音々の眼からは涙が溢れ、頬に溜まった泥を洗い流していった。洗い流された頬は、きらきらと金魚の鱗のように煌めいている。
音々の太物の付け根からは、赤い血が一つの筋を作って床へと流れていた。
下半身の血は、音々が純潔を亡くした証でもあった。そして、音々の全身はそれとは別の赤い血で、彩られていた。
金魚娘々
音々が生まれたのは、異郷の地であった。かつて、日本が理想国家として立ち上げた満州国家が音々の故郷だった。その建国日である1932年に、音々はこの世に生を受けたのだ。父は内地の人間で裕福な商人。母は満州で生を受けた娼婦だったという。
母は、陽に当てると赤く艶めく肌をしていたらしい。
その煌きは、優美に泳ぐ金魚の鱗を想わせた。その肌を称え、人々は娼婦である母を金魚娘々と呼んだ。娘々とは、中国語で女神を意味する言葉だ。その名のとおり、母は女神のように光り輝く女性であった。
泥まみれになりながら、闇市のゴミ溜めを漁る音々とは違って。
「そら、チャンコロがゴミあさってらぁ!! 金魚のチャンコロだ!!」
弾んだ声が、音々にかけられる。とっさに振り向くと、下品な笑みを浮かべた少年たちが音々を見下ろしていた。ニタニタと少年たちは音々が握り締めている、腐った馬鈴薯を見つめている。
「おうおう、金魚なのに馬鈴薯なんか食うのか!? 臭い糞でも食らってればいいじゃねいかぁ!!」
大将であろう大柄な少年は、粟立つような笑みを浮かべ手を伸ばしてきた。その手は音々の持つ馬鈴薯を狙っている。音々はとっさに馬鈴薯を胸に抱き寄せ、叫んでいた。
「堪忍してください! これは、大事なおっとさんにやる食べ物なんです。もう、ろくに飲み食いしてなくて、このままじゃ、おっ死んじゃいます!!」
「死ね死ね!! 汚いチャンコロ抱いた下半身のだらし無い飲んだくれなんて、おっちんじまっった方が良いって、家のオヤジも言ってたわ」
「死ね! 死ね!!」
「死ねー! 死ねー!!」
少年たちは口々にはやし立てる。少年たちの罵声に、音々はぎゅっと嗚咽を堪えていた。
たしかに父は身を持ち崩し、闇市で酒を煽るロクデナシだ。安酒が足りなくなると、音々を罵る。それでも音々は、幼い時に優しくしてくれた父への情を捨てることができなかった。父は、その境涯から蔑まれる音々にとって、唯一の拠り所と言ってよかった。
「こらこら、やめないか。君たち」
そんな音々を、助けてくれる者があった。
突然声をかけられ、少年たちは背後を振り向く。ゴミ溜めに似つかわしくない白いワイシャツを着た青年が、少年たちに微笑みを送っている。
「やぁやぁ、金魚のあんちゃん。どうしたんだよぉ。なんで、こんなチャンコロの肩持つんだ?」
「だからだよ。弱い者いじめは楽しいかい? せっかく米兵さんからチョコレイト貰ってきたのに、君らはいらないとみえる」
「チョコレイト!!」
少年たちは目の色を変えて青年の元へと走っていく。青年の手からひったくるようにチョコを受け取ると、彼らは音々に向かって叫んだ。
「チャンコロ! 今回は見逃してやらぁ。でも、今度はたたじゃおかないからな!!」
「チャンコロ! チャンコロ!!」
「馬鈴薯食って、腹壊しちまえ!!」
いっそう惨めな気分になって、音々は俯く。熱い涙がほろほろと泥に塗れた頬を流れていった。
「大丈かい。娘々……」
青年が優しく手を差し伸べてくれる。音々は、その手を払いのけていた。
「大丈夫だって言ってるでしょ……。あたしのことなんて、ほうっておいてくださいよ……」
泣いていることを気取られまいと、音々は声を張り上げた。それでも、気丈な声音はどこか頼りなく、青年の表情を曇らせていく。
「おいで、可愛い顔がだいなしだよ……。最近、このあたりじゃ人攫いも出るだろう。うろつかない方がいい」
青年の言葉に、音々はますます顔をあげられなくなっていた。
「僕のことも、嫌いかい?」
その言葉を聞いて、ようやく縋るように青年のズボンを握り締める。顔をあげ、音々は困ったように青年を見上げた。
「私のことなんて放っておいていいいのに。どうして優しくしてくれるの? 健一《けんいち》兄さん……」
健一は、迷路のように広がる、赤線地区に見世物小屋を開いていた。 見世物といっても、手足のない百足男がいる訳でも、蛇のような肌を持つ少年が檻に閉じ込められている訳でもない。
閉じ込められているものといったら、金魚だった。見世物小屋に入ると、正面に大きな裸電球で照らされた水槽があり、その水槽の中を縦横無尽に輝く金魚たちが泳いでいるのだ。
健一はときおり赤線地区の酌婦を雇って水槽の中を泳がせる。赤い衣を着て金魚たちと泳ぐ彼女たちはひときわ美しく、まるで天女のようだと客たちは感嘆と溜息を漏らすのだ。
その水槽の前に、音々は立ち尽くしていた。横では健一が、客の米兵から貰ったらしい缶詰だの、乾パンなんかを、丁寧に包にくるんでくれている。
何だか申し訳なくて、音々は彼に顔を向けることができず、水槽の金魚をぼうっと眺めていた。
金魚たちは長い尾ひれを絹のように纏いながら、水槽の中をぐるぐる巡っている。巡る金魚を眺めながら、音々は妄想にとり憑かれていた。
満州で死んだ母が、金魚の鱗を全身にびっしりまとって、水槽の中を泳いでいるのだ。海藻のように翻る髪が美しい。金魚たちは母を慕うようにその周囲を巡っている。そして、音々のもとに母がやって来る。母は優しく、音々に微笑みかけるのだ。
彼女は口をぱくぱくと開いている。ごぼごぼとその口から気泡が漏れる。母は、音々に何かを伝えようとしているみたいだった。
――コッチへいらっしゃい。
そう、母は言いたげだ。
「音々ちゃん」
健一に呼ばれ、音々ははっと我に返る。彼は丁寧に包んだ風呂敷を、音々に差し出していた。
「少ないけれど、持っておゆき。これで、お父さんに怒られることもないだろう……」
音々は非常に申し訳なくなって、俯いてしまった。満州から引き上げてきてからというもの、健一は音々にとても良くしてくれる。彼のおかげで、ロクデナシの父ともども生きているといっても、過言ではない。
「やっぱり、こういうのは嫌かい……」
健一の不安げな声を聞き、音々の頬は熱を持っていた。嫌ではない。だが、年頃の娘が持つ頑なな矜持が、音々に返答を渋らせる。ただ音々は、頭を振り彼の問いに答えることしかできなかった。
申しなさげに風呂敷包を受け取る。顔をあげると、健一が安堵したように笑みを浮かべていた。
何を思ったのか、彼は音々の頬をすっと撫でてくる。音々は驚いて、その手を払いのけていた。
「ごめん、泥とったら金魚の鱗みたいに綺麗だと思って」
健一の言葉に、音々はすっと頬を染めていた。
金魚の鱗のように輝く母譲りの肌に、健一は気がついてくれたのだ。音々が母から引き継いだ肌色は、音々にとって自分が母の子であるという唯一の証だった。母のように自分も美しくなれるという、わずかな幻想を抱かせてくれるものだった。
音々は、金魚の泳ぐ水槽を見つめる。そこに映る自分の姿を見て、さあっと頬の熱が冷えていくのが分かった。
母とは似ても似つかない、痩せて、泥にまみれた汚い娘がそこにはいる。頭の中で、金魚の鱗を纏った母が、音々に微笑みかけてくる。
――そんななりじゃ、とうていコチラへは来られないね。
――変わってご覧。変わってご覧。
ぐるぐるぐるぐる。
母は、脚を尾ひれのように揺らしながら、音々の脳裏を駆け巡るのだ。そんな母の空想を振り払い、音々は健一に話しかける。
「ごめん、健一兄さん。もう、いかなくちゃ」
変われるものなら、変わっているわ。
そう空想の中の母に呟き、音々はその場を後にした。
2015/10/24 00:39:57
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2015/10/24 22:54:47
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2015/09/12 17:41:23
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2015/09/09 23:05:49
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